月まで届く鐘の音を

執筆します(小説)

#4

  定時に仕事を終え帰宅した種田は、帰り道で寄ったスーパーで買った惣菜を頬張りながらニュース番組を見ていた。彼の食生活は決まってこのサイクルにある。スーパーで買った惣菜と家で炊いた米を食べる。彼の中には食において、というより全てのことにおいて贅沢したいという感情がない。どこでその感情を落としてきたのだろう、などと考えたりしたこともあったが、結局その答えを見つける前に、財布に優しいからこれでいいんだ、という結論に至る。時々このワンパターンで、どこか温もりを欠いた食事に、自分の心の中にある空白を投影することがある。今日も割引のシールが貼ってある魚のフライと野菜サラダを食べながら、ふとその空白の中に自分が閉じ込められている気分になっていた。

  食事を終えソファで読書をしようと、文庫本を開き、栞を取った瞬間インターフォンが鳴った。時計を見ると7時半を少し過ぎたところだった。こんな時間に誰だろうと種田は訝しみながらモニターをチェックした。ドアの前に大きなリュックサックを背負った見慣れない男が立っていた。

「どちら様ですか?」

「種田か?黒岡だ。黒岡哲也。覚えてないか?」

「黒岡...。」

種田の頭の中を様々な記憶が駆け抜けた。それは様々な感情と痛みをもってして彼の身体の中を電撃のように走り抜けた。しばらく放心状態になっていた種田をインターフォン越しの声が呼び覚ました。

「おい、種田。聞こえてるか?俺だよ。中学まで一緒だった黒岡哲也だ。ここの住所は寺嶋に聞いたんだ。事前に来ることを連絡しとくべきだったけど、お前をびっくりさせたくてな。驚かせてすまない。」

「勿論覚えてるよ、黒岡。まさかもう一度会えると思わなかったよ。今ドアを開ける。」

種田はドアのロックを外し、黒岡と向き合った。色褪せたジーンズに黒のセーター。その上に紺のジャケット。そして黒い帽子を被っていた。ここで種田は黒岡にどこか昔と違う違和感を感じた。10年以上も時を経ている。人は変わるものだが、黒岡の変化にはどこか何か大事なものをいくつも欠落させてきた、というような雰囲気を感じた。これなら街で偶然すれ違っても気づかないだろう。しかし、瞳の奥に燃えるような炎を感じさせる力強さは相変わらず変わっていなかった。

「随分痩せたな。エースで四番。筋肉バカと呼ばれてたあの頃のお前からは想像もつかないくらいに。」

「まあな。あれから色々あった。人は変わるもんさ。それにしてもお前は全然変わらないな。身長が少し伸びたくらいか?」

「まあ中でゆっくり話そう。入れよ。」

種田は黒岡を招き入れリビングへ向かった。黒岡は重そうなリュックサックを下ろし、座椅子に腰かけた。

「随分と色々入ってそうだな。それ。何が入ってんだ?」

「今の俺の全てさ。」

種田はキッチンからお茶の入ったコップ2つを持ってきてソファに腰かけた。

「仕事はしてないのか?」

「辞めたんだ。昨日。新しい人生を始めようと思ってな。お前はどっかの中小企業で働いてるんだって?寺嶋に聞いたよ。」

「ああ。事務職だから、パソコンに文字打ち込んだり、電話対応したりと随分ワンパターンで退屈な仕事だけどな。」

「そうか、まあ上手く人生の波に乗れてるみたいで良かったよ。」

「波に乗ってるというより、俺の場合波に流されてるって感じだけどな。まあ俺にはこれくらいが丁度いいんだよ。お前はどうするんだ?何かやりたいことでもあるのか?」

「今考えてるところだ。それよりお前に頼みがあるんだ。しばらくここに住まわせてもらえないか?仕事が見つかるまで。前の仕事が住み込みの仕事だったんだ。だから俺には今住む場所がなくて困ってる。迷惑なのは百も承知だ。仕事見つけて人生が軌道に乗り出したらすぐ出て行くからさ。」

「なるほどな。それで俺を頼ってきたわけか。昔の親友の頼みを断れるわけないだろう。それにお前とは話したいこと、いや話さなきゃならないことが山ほどありそうだからな。部屋が1つ余ってる。ほとんど物置き状態だがそこを使ってくれて構わない。ただし、早いとこ仕事を見つけるってのが条件だ。」

「ありがとう。助かるよ。いつか必ず恩は返すからな。」

そう言って二人は十数年ぶりに握手を交わした。こいつの手こんなにちっちゃかったっけ?種田はそう感じたが口には出さなかった。

 

#3

  夜の帳が下りた街並みを種田直樹は一人物思いに耽りながら歩いていた。街灯の周りには無数の蛾が群がっている。闇の中をただ光を求めて飛び続けるその姿に、種田はなぜか自分の姿を重ね合わせていた。思えば28年間、ずっと闇の中を歩いてきた気がする。そう思った数秒後、それは違うと考え直した。俺は人生のある時期から何かがおかしくなったんだと。ずっと闇の中を歩いていた訳じゃない。それはきっともう随分前から分かっていたことだ。中学、高校、大学と、偏差値はそれほどではないものの順風満帆な人生を送ってきた。就活もうまくいき、中小企業から内定をもらうことができた。それから今までそこで働き続けている。でもなぜだろう。種田には何かが足りない気がした。自分だけが海の底に沈められ、外界を眺めているような。一人街中を歩いていると、すれ違う人々に自分とは違う異質な何かを感じるような。しかし、種田以外の人々には種田がそのような感覚を抱いて生きているなどとは到底思えなかった。彼を知る人々は皆彼のことを羨むほどだった。何もかも上手くいっている人生。なんの挫折もない人生。他の人の目には間違いなくそう映った。種田が海の底からあらゆる人々を、眩い光のように感じているなど、誰も知る由がなかった。彼は満月にほど近い月を眺めながら帰路をとぼとぼと歩いた。

  とある事件が起きたのはその翌日である。ある男が種田の住むアパートに突然押しかけたのだ。その男の瞳には遠い時代に忘れ去られた記憶を呼び起こすような力強さが宿っていた。

#2

  「種田君、君は過去や未来という時間軸は存在すると思うかね?」

家族連れで騒然とした、とあるファミリーレストランで、宮城はそう言った。少し離れた席で推定2歳程度の幼児が泣き喚いている。種田にとってはいつもの光景だ。

「過去は存在するでしょう。だって過去がなければ私たちは今こうしてここに存在しない。あの今泣き喚いてる幼児だって、ほんの数年ですが時を経てここにいるから、生まれたばかりの赤ん坊より体に成長が見られるんです。未来はどうでしょう...。1秒後に世界が崩壊している可能性も無いとは言い切れませんから、未来はあると断定はできないかもしれませんね。」

銀縁の眼鏡を丁重に外し、宮城はクリーム色のハンカチで顔にまとわりついた汗を拭った。今年の夏は例年に比べて気温がどうも高いらしい。毎日のようにテレビの中でニュースキャスターが手慣れた口調でまくし立てていた。種田はその姿を回想し、彼らにもそこに辿り着くまでの過去、過程があってテレビの中に立っている、そして達者な弁舌を少しずつ努力をもってして習得していったのだろう、などと思いを巡らせた。世の中には何の努力もなしに簡単に物事をやってのける人が時たまいるが、全てのニュースキャスターに当てはまるとは彼には到底思えない。努力したという過去があって、彼らはテレビの中に存在できるのだ。

「なるほど。真っ当な意見だね。でもそれはあらゆる可能性を想定した意見とは言い難いな。」

「どういうことですか?博士は過去は存在しない、とお思いなんですか?」

宮城は特別、博士と呼ばれる職についている訳ではない。彼は大学の教授で哲学を教えている。種田はごく普通のサラリーマンで、宮城とは種田が務める会社の職務で宮城の講義を見学することになった際、知り合いになった。種田と宮城は歳は離れているもののお互いに引き合うものを感じ、少しずつ懇意になっていった。種田が宮城を博士と呼ぶようになったのは知り合っていつ頃からか二人とも検討がつかないが、種田にとっては最大の敬意の現れであった。

「そういう訳じゃない。ただ世の中にはありとあらゆる物事を疑うことを起点とし、生み出される仮定というものがある。」

「仮定...。過去が存在しないという仮定ということでしょうか。疑うことを起点とする...。私には少し理解できません。もう少し分かりやすくご説明していただけないでしょうか?」

宮城は暮れ行く街を窓越しに眺め、コーヒーを一口飲んだ。それから食べかけのナポリタンの器からフォークを右手に持ち、じっくりと眺めた。

「君にはこのフォークが存在すると思うかね?」

「当たり前でしょう。今博士が手に持っているじゃありませんか。」

宮城は微笑を浮かべてフォークを元の位置に戻して、もう一度外の風景に目を凝らした。今度はさっきよりも長い間、じっと見つめていた。

「この話の続きはまた次回にしよう。私は空が好きでね。特にこの時間帯の空は特段美しい。だからつい空に気を取られてしまう。すまないね。君は空が好きかね?」

「勿論ですよ。博士のおっしゃる通り、この時間帯の空の色彩の移り変わりは好きです。一秒、一秒、空が変化していくようでつい見とれてしまいます。」

宮城は満足げに頷いた。

 

#1

  自分がNではないと知ったのはNが死んでから約8年後のことだった。それまでの8年間、Fは自分がずっとNであると自覚し、生きてきた。というより、自分がN以外の存在であるなんて考えもしなかった。自分が自分以外の存在であるなんて誰が信じるだろう?Fも同じだった。自分の名はNである。Nと書かれたこの使い古されたノートも、Nが懇意にしていた人々との淡い記憶も、Fにとっては全て自分のものだった。Nが8年前に死んでいたと知ったその日までは。

  Nが死んだと知った時、Fは自分の存在価値を見出せなくなった。切り刻まれた傘で土砂降りの中を歩く人のように、彼は痛みをただ受け入れるしかなかった。そして彼の心の中に、ある種の空白が生まれた。いや、その空白はもっと以前から彼の心の中にあったのかもしれない。ただその事実に彼が気付いていなかっただけだ。あるいは、空白を空白と認識できていなかったのかもしれない。いずれにせよ、その空白は彼の人生に深い空虚をもたらした。そもそも何故、自分が別の存在であるNのことを自分自身だと長い間認識していたのだろう。そこには複雑な物事が絡み合っているようにFには思えた。巨大なパズルのピースの中に、別のパズルのピースが幾らか紛れ込んでいるかのように、答えはどれだけ時間をかけても出せないような気がした。